社会政策学会史料集




社会政策学会弁明書をめぐる論争

「社会政策学会弁明書」

社会政策と社会主義

社会政策学会

余輩は放任主義に反対す、何となれば極端なる利己心の発動と制限なき自由競争とは貧富の懸隔を甚しくすればなり。余輩は又社会主義に反対す、何となれば現在の経済組織を破壊し資本家の絶滅を図るは国運の進歩に害あればなり、余輩の主義とする所は、現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に於て、箇人の活動と国家の権力とに依て、階級の軋轢を防ぎ、社会の調和を期するに在り、余輩の目的は着実に社会問題を解釈するに在り。余輩の理想は労働と資本との調和に在り
顧ふに社会政策の趣旨たる、穏当着実にして毫も社会の秩序と国家の安寧と相戻る処なきに反して、社会主義は現在の社会制度及国家組織を破壊するに非んば、到底実行す可からざるものなることは学理の一定せる所にして、社会主義者も亦之を承認せり。欧州に於て社会問題を以て、雲烟過眼に附する極端なる放任主義者には措て問はず、苟も此問題が将来に関係するを知る者は、社会政策が此問題に関する唯一の解釈方法たることを認めざるはなし。然るに我邦有識者にして、二者の間明瞭なる畛域の存ぜることを知らざる者あるは転た痛嘆に堪へず。余輩が茲に本論を公にするもの亦已むを得ざるなり。
現在の経済組織の基礎を為すもの二あり、曰く自由競争、曰く私有財産是れなり。此二者に対して公共の利益国家の必要に応じて、相当の範囲に於て之を制限するは、近世国家の当然為すべきの任務なることは固より疑を容れざる所なり。然れども主義の上より、又理想の上より此二者に対して打撃を加ふる者は即ち現在の経済組織を破壊せんとするものなり、且夫れ此二者は経済進歩の最大要任なり、今若し現在の社会に於て、現在の人類に対し之れを除去せよと云ふ者あらば、此れ吾人の経済生活をして原始時代に復帰せしめんとする者に非ずして何んぞや、然るに社会主義は漫然之れを排斥し、土地資本を公有にし、自由競争を杜絶し、総ての生産機関は之れを国家若しくは自治体の所有と為し、総ての生産事業は其の種類の何たるを問はず。之を公共の事業と為さんとす、何んぞ其の謬妄の甚だしきや
抑も社会主義なるもは、其の由つて来る遠し、而して其理想は古来易はることなきも、実行の方法に就ては十九世紀の中葉に至るまで、其流派は多岐にして其説く処汪洋荒唐なるもの多かりき。然るに「カール、マークス」の著書、一たび世に現はるゝや、独逸に於ける社会主義者は靡然として同一の旗幟の下に集まれり。現今英仏両国に在つては社会主義者の主張する所、未だ全く一に帰せざるの看なきにあらざるも、其多数は概ね「マークス」に私淑せざるは無し。「マークス」の誕生地たり又欧州社会党の中心たる独逸に在りては、今や社会主義の解釈は全く合一せられたり。而して翻つて今我邦社会主義者の主張する所を按ずるに、当初に在つては其観念甚だ明確を欠きたりしも、夫の宣言なる者を見るに、「マークス」の学説に基ける者の如し。
殊に其名称が独逸に於ける社会主義者の団体と同一なるを以て亦之を知るに足るべし。余輩は我邦の今代史に於て、仮りにも社会党の発想てふ一節を加ふるの不幸を悲むと同時に、我邦に於ける社会主義の観念は此宣言に依つて始めて明確となり。世人をして社会主義と社会政策との間に劃然たる区別を為すことを得せしめたるを悦びなり、而して所謂社会主義なるものは、到頭社会問題を解釈するに足らざるを見るなり。曽て東京市に於て市街鉄道問題の勃興せるに際し、自由放任主義に基ける私有論に反対し、社会政策の上より市有論を主張せるに徴しても、余輩の見る所を知るに足らん。
自由競争と私有財産とを基礎とせる現在の社会組織を維持し、其範囲内に於て社会問題を解釈するの余地は実に綽然たるものあり。幼者婦女の保護の為めに制定する工場法労働者の権利実益を保障する職工組合、労働者の生計を安固ならしむる所の共済組合、若くは労働保険制、細民の勤倹貯蓄を奨励する所の消費組合の如き、此等の社会政策は現在の経済組織と相容れざるものにあらず。欧州に在て既に実効の顕著なるものあり。余輩は此種の画策に依つて漸次我邦の社会問題を解決せんと欲す
余輩が、工場法と云ひ、職工組合と云ひ、労働保険と云ひ、各種の社会政策を主張するは、是等の方法に非んば社会問題を解決する能はざることを確信せるが為めなり。若し夫れ其理想を異にせるも、一二其政策を同ふせるものあるが為めに、社会政策と社会主義とを混同することあらんか、社会党の鎮圧に全力を委したる「ビスマーク」も独逸今帝も、均しく社会主義者なりと云はざるべかず、奈何となれば「ビスマーク」は欧州に於ける労働保険制の創立者にて、独逸今帝は工場法に対して国際同盟を締結せんとしたる程の熱心なる賛成者なればなり。社会主義が其宣言綱領中余輩の夙に主張したるもの、例へば工場法職工組合、消費組合の如き、抑も此等は社会主義者の理想とせる所の土地資本公有の主義と何等与らず。然るに採つて以つて、其綱領となせし所以のもの、其主義たる架空の臆説にして、到底実行を期する能はざることを発見し、終に余輩の主張するものを取り、之を以つ其旗幟に銘するに至りしに過ぎざるのみ。是に由りて之を観れば、其理想に就きては社会政策は所謂社会主義なるものと、実に劃然たる区別あること亦た疑を容れず、世間亦之に関して謬見を抱くものなくんば特り余輩の幸而已ならん

〔2008年1月5日掲載〕


『経済叢書』第2号(明治34年7月)による





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